口唇期

<佐香 凍樹>


「口唇期とは、フロイトの唱えた心理=性的発達理論による、人間の発達段階の一過程である。主に0ヶ月より18ヶ月ごろまでの乳幼児期がその時期にあたるとされ−−」
  阿部は自分の部屋の中の寝床に寝転がりながら、本に眼を走らせていた。学校の課題ではなく、部活とも関連性が少々薄い、心理学分野についてのややかみ砕いた程度の書籍だった。
  もっとも、必要としていた内容が載っていたのは、ほんの数ページだけだった。
  教科書よりは若干丁寧に閉じて、阿部はその本を机の上に置いた。学校の図書館から借りてきた本である。あまり乱暴に扱うのも問題がある。
  読みとった内容を自分なりにかみ砕きながら、短い黙考に阿部は入り込む。

正直に言えば、阿部は三橋とつき合うようになるまで、誰かと深い仲になるほどの交際と言うモノをしたことはない。
  三橋もおそらくそうであろう。いや、阿部としてはそうであって欲しい。
  要するに阿部は三橋との関係が、他と比べて良いとか悪いとか判断する基準を持っていない。この年齢の野球少年でそういう判断ができる方が少数だろうが。
  そう、例えば、毎日のように人影に隠れて、隙あらば三橋がキスを自分に求めてくるのが、普通なのか、そうでないのかの判断をすることが出来ない。正しくはおかしいかどうか、判断するのに自信がもてない。
  校舎の物陰であれ、廊下の突き当たりの死角であれ、人気のない木陰の一角であれ、誰も周りにいない、と確信出来る場所に二人きりになると、いつも通りのおどおどした態度で、なのに相当強い意志で、三橋は阿部に口づけをせがむ。
  それに阿部がどう応えるかと言えば、可能な限りは応えてやるのが義務ような気がして、少なくとも日に一度、多ければ三度、キスを交わすのが日課になっていた。
  服の端を静かに掴みながら、上目遣いにこちらをのぞき込む三橋の愛らしさに、辛抱たまらず、阿部の方から勢い良く唇を奪いに行くことも多い。
  声を出さないように、出させないように、と自然に阿部のキスは慎重なものになる。子供のような柔らかい舌に自分のそれをからめ、歯列をなぞり、強く口の中全体を吸い上げる。
  ほんの十数秒間のことに、三橋の身体を抱きしめながら、何時間も口づけを続けているような錯覚すら覚える。
  ゆっくりと口唇を離し腕をほどくと、今度は三橋が、しっかりと腕を阿部の背中に回してくる。まるでそうして体温を確かめるように。
  少しだけ自分よりも低い位置の栗色の髪に、阿部はゆっくりと触れる。理由は特にない。ただ、こうした方が三橋が喜びそうな気がする。
「……ありがと」
  普段よりも落ち着いた声音で、三橋は阿部に礼を言う。
「おう」
  どう返していいかも分からず、ぶっきらぼうな言い方になってしまうのもいつも通り。
  紛れもなくいつも通りの二人のキスの光景だった。

ドラマや映画や小説等々についての阿部の知識を総合してみれば、恋人同士がこの程度の頻度でキスをすることは珍しくはない。
  だが、それが本当の意味で一般なのかどうか阿部には判断しようがない。
  薄々どこかで一般とは違うような気がしなくもない、がどちらにしても自信がない。別に何か問題があるわけでもないし、不満もないのだけども、何となく引っかからなくもない。
  三橋の反応をみていると、特に。
  ということで、他の人間に相談してみるという手に、阿部はでた。
「……あのさ、おまえらどれくらいキスしてる?」
  時は放課後、教室からグラウンドへ移動をする途中、自分と同じようにチームメイトと恋人同士である、花井と水谷に話を振ってみた。 
「は?」
「へ?」
  花井も水谷も、突然の反応は似たようなモノである。
「どれくらいって、どういうことだ?」
「いや、だから、三日にいっぺんとか、二日に一度とか……」
  半分思いつきで質問を口にした阿部としては、花井にそう問い返されても何となく、な返事になる。
「そりゃ、流れとかでするもんなようなきがすっけどー」
「……阿部、質問の意図は何だ? 何があった?」
  脳天気な水谷アンサーに対し、花井は少なからず心配そうな顔をしている。阿部もさっきの質問の仕方のマズさに気がついた。あれでは逆に、キスを全くしてないのではないか、と思われても仕方ない。
  三歩ほどの逡巡の後、意を決して阿部は口を開く。
「顔会わせれば、っていうかほとんど毎日キスしてんだけどさ」
「え・・・マジ?」
  その水谷の反応にちょっとイラッ、ときたので、阿部は胸ポケットに指していたシャーペンの尻で背中と突いてやった。
「それはちょっと、多くないか?」
「・・・やっぱり、そうか」
  花井の反応で、疑惑が確信に変わり、阿部としては複雑な心境だった。自分たちのしてることを確認できたのはいいことだが、遠回しにバカップルと言われたような気がしなくもない。
「ってかさー、どしてそんなにしてんだよ?」
「レ……三橋が誘ってくんだよ」
  阿部の言い間違いの修正があまりにも不自然で、不自然すぎて、水谷は指摘するのをやめた。微妙に顔を赤くしているのも見て見ぬ振りをしてやるのが友情と言うものだろう。うん。
  恋人を下の名前で呼びそうになるのは良くあることだ。
「三橋から、か?」
  花井が話を本筋に戻す。心なしか、阿部を見る目が優しい気がした。
「ん。……だけど。アイツの反応がちょっとな」
「ちょっと、なんだ?」
「なんつーか、・・・ホッとした、みたいな反応なんだよ、いつも」
  慎重なそれでも十分深いキス。阿部は毎回少なからず興奮しているのだが、三橋の方は、安心しきった温かい湯船に入っているような表情を見せる。優しく、緊張の解けた安堵の表情。
  その反応が少しだけ、引っかかっていた。
「まあ、確かにちょっと変わってる・・・かもしれん」
  何か思い出すように眼球を上向きにしながら、花井は応える。
「フツードキドキするよな」
  さらに水谷の発言も後押しして、阿部は少し考えるように目をつむった。
  自分のキスが下手、というのは無いだろう。あれだけ毎日のように時間を割いて阿部を捕まえにくるのだ。それだとすれば、三橋にとってあのキスの意味はどこにあるのか。
「ふーん、話聞いてると、口唇期じみてるな」
「ん? なにそれ?」
「いや、フロイトって知らないか? 心理学で有名な人だけど」
  水谷の疑問に、花井が軽い解説をいれ始める。
「まあ、人間が発達するには、何段階かあるって言う考えで、その段階で執着する身体の位置によって、名前を付けた、っていうのだった気がする」
「ふんふん。で口唇期って?」
「そのまんまの意味で。唇のあたりに興味が集中する」
  たぶん、田島に何度と無く奪われているであろう唇を花井は指さす。
「つっても、確か赤ん坊の時だったような気がしたけどな、口唇期って」
 

主将の言葉をヒントに、阿部は翌日、学校の図書室を訪れた。
  それらしい棚を眺めていると、まさしく「フロイト」と題に入っている本を見つけ、それを借りた。
  そして、帰宅後、自分の部屋の中でのぞいてみる。
  花井の言っていた、成長プロセスーー性的発達理論についてのページはごく短くすぐにその部分は読み終わった。
  阿部隆也なりに書かれていたことを分析すれば、要するに、人間が発達するプロセスにおいて、正常な触れあいこそ重要である、と言っていたように思える。
  口唇期から始まり、思春期以降の性器期に至るまで。
  正常な人間の発達は、多少の反抗、衝突も含め正常な周囲の人間との関係と接触から生まれる。接触は、親からの愛情と言い換えても良いだろう。
  そこで阿部は三橋の母親を思い出す。
  何があろうとも、虐待などとは、無縁なように思える親だ、と阿部の目には映る。少なくともそういった意味では十分な愛情を与えられて三橋は育ってきた。
  ただ、
  少なくとも、小学校時代までは、と注釈をつけなければならない。
  そう考えが進み、自然と阿部の眉間にしわが寄る。
  もうとっくの昔に、終わった話であり、三星のメンバーとの折り合いはおそらく三橋の中では済んでいることだろう。今更、蒸し返す必要はない。
  だけど、
  結果として、今は収まったが、それで、過去の経験が帳消しにされることはない。
  それ相応の傷は残る。
  愛情によって積み重ねられた成長。
  その三橋の精神的な成長を削りとるのに、三星時代は十分な理由に、阿部には思える。カンナをかけるように、やすりでえぐるように、三橋の心は一番有効なやり方で深く鋭く痛めつけられ、そして……。
  阿部なりに考え散らかした、三橋の内面について。完全とは言えないだろう、が、大きく間違っているとも思えない。
「……なるほど」
  そこでまた一つ、阿部は気づく。
  逆もまた真なり。削られた内面が退行を起こしているのならば、その分を補えば良い。
  どうやって?
  知れたこと。
  それが出来るのは、愛情以外に何がある?
「・・・ったく、コレだから投手ってのは」
  ひとりごちて、阿部は大の字に寝転がる。
  どこまでも手間がかかる。面倒で仕方ない。
  だけど、ここまで一緒に来た、これ以上無いくらい、大切な奴だ
  −−満足するまでつき合ってやる−−
  垂れた目尻を釣り上げるように阿部は不敵に笑う。思い浮かぶのは、キスの後の、安心しきった三橋の顔。温かそうで幸せそうな優しい表情。
「こうなりゃ一蓮托生だ」
  とことんつき合ってやる。
  あのツラが見られるなら、キスぐらい安いもんだ。

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