満月

<箱崎 藍之介>



柴犬にファーストキスを奪われるというトラウマを、トキマシュウタは持っていた。「せめて次のキスは、ごく普通のキスを……」そう切実な願望を抱いていたシュウタだった、が、最悪に近い形で、その願いは破れる事になるのであった。



『満月』

 ――え?えーっ!?
 シュウタは自分の置かれている状況を理解してすぐに起き上がり、慌てて壁際へと逃げた。寝起きの身体でよくもまあこんなに早くと言えるほどのスピードである。
「お前!何なんだよ!!」
 そう詰られた、おそらくシュウタ自身と同じ年くらいであろうと思われる少年は、にっこりと笑って、それから音もなくすうっとシュウタの方に近寄って来た。
 シュウタはこのあり得ない状況の中で必死に冷静になろうと辺りを見回した。
 壁に貼られたプロ野球選手のポスター、本棚に並べられているマンガ本、壁にかかった時計の秒針の音、黄色い常夜灯の光にぼんやりと照らされた部屋は、いつも通りのシュウタの部屋だった。
 だがしかし、目の前にはいつも通りの部屋にあってはならない存在が確かにある。昨日はいつも通り、宿題をして、お笑い番組を見て、それからオナニーをして寝ただけじゃないか。
「怖がらなくても、よい」
 突然、少年がゆっくりとした口調で言った。透き通るように白い肌の少年の、消え入りそうに小さな声だったが、シュウタはピタリと黙った。
「あの、あんた誰なのさ」
 シュウタはありったけの勇気を振り絞って訊いた。
 昨日は誰かが止まりに来ていたわけではない。
 そして、窓も開いていないし、ドアも開いていない。
 もしただの泥棒だったら、シュウタ自身が目覚めた時に逃げただろうし、ましてやあんなことはしなかったはずだ。
「知りたいか」
 相変わらずの蚊の鳴くような声で少年が問う。シュウタはただただ何も言えずに、ふるふると首を二回縦に振って答えた。
「サカイワヘイタロウ」
 何かの呪文のように、まったく抑揚をつけずに少年、ヘイタロウは自らの名を名乗った。しかし、シュウタには全くもってそんな名前に聞き覚えが無かった。
「あの、どちら様」
 少しずつ冷静さを取り戻してきたシュウタはヘイタロウの全身をちらりとさっと盗み見た。
 本当に上から下まで透き通るような肌で、それでいてくたびれたシャツと腿の辺りまでしか丈の無い短い半ズボンを穿いている。
 まるでそれは、ドラマか何かで観た昭和の子どもの印象そのものであった。
「知らぬのも無理は無い、第一僕だって君のことはつい先日知ったのだから」
 つい先日。
 シュウタはヘイタロウの言葉を、ヘイタロウと同じように抑揚なく繰り返した。
「そう、この前、お婆さんの墓参りに行っただろ」
はあ
「その時、君のことを見たんだよ」
はあ
「墓の中から」
―はあ?
 シュウタはヘイタロウの言葉に驚いて、思わず語尾を上げた。
 そして、その後すぐに言葉の意味を理解して冷や汗が流れ出した。ということは、自分は今、幽霊と会話しているのか?そうなのか?でもきちんと脚はついているぞ?
「幽霊に足がついていないというのは迷信だ」
 ヘイタロウは決然とそう言った。声に出していない疑問が、きちんとヘイタロウには届いているのだ。
 シュウタは試してやろうと、頭の中で「みそ汁の具と言えば何が好きか」という無味乾燥な質問を思い浮かべた。しかしながら、ヘイタロウには「お前、私を試そうとしているな」と言われてしまった。
「でも、その幽霊さんが、あの、その何で僕なんかの部屋に来て、そして、なんで僕にキスなんかしたんですか」
 そこまで言いきって、シュウタは真っ赤になってしまった。そうだったのだ。目覚めた時、はっきりとシュウタはその目で見たのだ。ヘイタロウの唇と自分の唇が、確かに触れていた。
「一目惚れって奴、だな」
 ヘイタロウの言葉を聞いて、シュウタは自分の全身からへなへなと力が抜けて行くのを感じた。なぜ、幽霊に惚れられたのかはわからないが、一目惚れで憑いて来られて、しかも唇まで奪われてしまうなんて、至極迷惑な話である。
「まあ、そう迷惑だというな、どうだ初めての接吻は」
 ヘイタロウが少しにやつきながら聞いてくる。その表情が少し腹立たしくて、シュウタは目を閉じてそっぽを向いた。
「初めてじゃ、無い」
 シュウタのその返答に、ヘイタロウは少し驚いた。
「はぁ、どんな子だったんだ、初めての相手は」
 目を開けると、さきほどよりもヘイタロウがこちらに近づいてきており、そしてさらににやついている。
「同じクラスのイクミちゃんの、犬」
 真っ赤になって恥ずかしそうに言うシュウタの様子に、ヘイタロウは大笑いした。
 それまでずっと消え入りそうだったヘイタロウの声が、初めてシュウタの耳にクリアに聞こえた。    
 笑われたシュウタは、もうこれ以上は赤くならないというくらいに赤くなった。
 イクミと言うのはシュウタが小学生のころから片想いをしている同級生の女の子だ。
 ある日、イクミが風邪で学校を休んだとき、シュウタはこれ幸いと先生に配布物をイクミの家に持っていく役を買って出た。
 実際、イクミの家はシュウタの家の三軒隣で、配布物を届けることは何ら不思議では無かった。
 先生に頼まれた配布物を持って意気揚々とイクミの家の玄関のベルを押すと、イクミの母が出た。シュウタが配布物を持ってきた旨を伝えると、掠れたいわゆるハスキーボイスのイクミの母は丁寧に礼を言い、それからしばらくして玄関にイクミが現れた。
 いつもと違う、ジャージにTシャツという出で立ちのイクミにシュウタはドキッとした。その胸には、豆柴というらしい小さめの柴犬が抱かれていて、その柴犬の向こう側に、イクミの中学生にしては大きな胸があった。
 と、そこでシュウタは気付いた。風邪で一日寝ていたのであろうイクミは、どうやらブラジャーを付けておらず、乳首がうっすらと透けていた。
  これは千載一遇、願ってもないチャンスである。
  シュウタはイクミに配布物を渡し、それから柴犬に目を合わせ撫でるふりをして、イクミの胸をしっかり舐めまわすように、目に焼き付けるように見た。
 それはシュウタにとって、今まで誰にも知られていなかった星を発見した時のような、国語のテストで解答欄に当てはまる箇所を見つけた時のような、絵本で赤と白のボーダーの服を来た眼鏡の青年を見つけた時のような、そんな素直な感動と発見の喜びにあふれていた。
 その時だった。
 撫でていた柴犬(名前をセレスというらしい)が、急に暴れて、目線を合わせて接近していたシュウタの唇に思いっきり噛みつくように唇をがふとぶつけたのである。
 これにはシュウタもイクミもビックリして、一瞬の沈黙が訪れた。
 そして、しばらくしてからイクミが声を立てて笑いだし、シュウタもそれに釣られて笑うしかなかった。
 そんな苦いファーストキスの経験から、次のキスこそはイクミとと決めていたのである。それなのに、それなのにである。
「犬なんて数のうちに入らないだろう」
「幽霊だって入りませんよ」
 悪戯っぽく言うヘイタロウの態度に腹が立ったシュウタは、ぷいというようなへそを曲げた態度で早口に言い返した。
 だが、それがヘイタロウの気分を損ねてしまったのだ。
「ほお、言ってくれるではないか、よかろう」
 ヘイタロウがそういうと同時に、シュウタの身体がふわりと宙に浮いた。シュウタは驚いて叫ぼうとするも声が出ない。
「呪ってくれよう」
 その言葉に、シュウタは首を振って抵抗しようとする。が、もちろん身体を動かすことも出来ない。シュウタは必死に心の中で念じた。

  ごめんなさいもうへんなこといいませんなんでもいうことききますころさないでくださいゆるしてくださいおねがいしますへいたろうさまごめんなさいもうしわけありませんすみませんごめんなさいごめんなさいごめんなさい

「じゃあ、私のいうことを聞くのだな」
はい
「じゃあ、お前と行動を共にさせてもらうからな」
は、え
「文句があるのならいいぞ」
い、いいえ、ありません
「よし」
ヘイタロウがそういうと同時に、シュウタは急にどさっとベッドの上に落とされた。
「今日からよろしくな」
ヘイタロウが不敵な笑みを浮かべた。
シュウタはとんでもないことになったと窓の外を眺めた。
月がいつもより心なしか明るく、そして丸く、ぼんやりと見えた。


(おしまい) 
   

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