たなごころ

<箱崎 藍之介>



 公園の隅にある滑り台の上の、小さなドーム型の遊具の中で僕と櫻ちゃんは息を潜めていた。
 櫻ちゃんとぴったりくっついている僕の身体にも、櫻ちゃんの荒い息遣いと、早い鼓動が伝わってくる。
 だいだい色の夕陽が、錆びたドーム入口から、あるいはところどころ朽ちて空いたドームの穴から射しこんできて、黒くなってしまった床を細く明るく照らしている。
 外ではさっきのラーメン屋のハゲオヤジが、まるで狂ったように怒鳴り散らかしている。
「どこいったんだ、あのクソガキどもが!」
 中学校の時以来、久しぶりに遊ぼうという連絡が櫻ちゃんから来て、僕は嬉しくてすぐに了解した。それで、最寄りの停留所で待ち合わせて、バスに乗って、映画観て、帰りにラーメンを食べて行こうという話になった。
 カウンター席の端の方に二人で並び、僕が大盛りバリカタ麺ネギ増し、櫻ちゃんがやわ麺肉増し煮玉子入りをふうふう言いながらすすっていると、ふうふうの合間に、何の前触れも無く唐突に「優、オレ今日実はもう金無いから、これ食ってしばらくしたら逃げよう」と櫻ちゃんが物凄く小さな声で言いだしたのだ。
 いくらか余分に持ち合わせがあった僕は、「いいよ、僕が払うよ」と提案した。にもかかわらず、「いや、借りを作るのは本意じゃない」と言って櫻ちゃんは聞き入れなかった。櫻ちゃんは昔から、貸しとか借りとかそういうのを気にする性質なのだ。
  三杯目の冷水のグラスがまるで冷や汗のように水滴をたらし、店内には古い換気扇の音がごうごうと鳴り響いている。
  タイミングは一瞬で、それでいて絶妙だった。
  一人で店を切り盛りしているオヤジが、ごみを捨てに一瞬調理場を離れたその隙に、櫻ちゃんは一目散に飛び出した。僕はびっくりしたがとにかく後を追った。そして、すぐにラーメン屋のオヤジが追いかけてきたのだ。
  僕らは適当に大通りから路地へ入って、込み入った住宅街を抜けて行った。新興住宅地らしく、同じ形をした家がいくつもあり、道も網目のように細かく張り巡らされていた。しかし、土地の利があるオヤジも負けずにぐんぐんと追いかけてくる。見た目は僕の父さんと同じくらいの年齢だが、存外に足が早い。
  調味料のシミがついた黄ばんだ調理服のまま、僕らの後を追いかけてくるオヤジは、まるで昔話の鬼か何かみたいで怖かった。だが、それよりも櫻ちゃんと離れることの方が怖くて、僕は一生懸命に走った。
  うねうねといくつもの路地を曲がったところで、目の前に大きくも無いが小さくも無い公園が現れた。
  公衆トイレ、積みあがった土管など隠れられそうなところはいくつかあったが、櫻ちゃんはあえて、僕の手を引っ張って、このふたり入るのがやっとというようなドームの中に入ったのだ。 そう言えば、小さい頃にもこうやって櫻ちゃんと一緒に逃げていた。
  僕は運動がものすごく苦手で、とくに走ることに関しては体育の授業や運動会で、いっつも下から数えた方が早い成績だった。
  だから、休み時間に鬼ごっこや缶けり、かくれんぼをするときは鬼になってばかりいたのである。
  そうこうしているうちにそんな僕を心配してくれたのか、いつの間にか、いつも櫻ちゃんが手を引っ張って一緒に逃げてくれるようになった。
  櫻ちゃんは色白で物静かで、当時ではあまり多くないピアノを習っている男子であったが、それでいてクラスで一二を争う俊足だった。
  繋いだ櫻ちゃんの手は、白くて滑らかでそして、僕のよりいくらか大きくて温かかった。
  櫻ちゃんがするりと離れて、外の様子を窺った。そして、「トイレ覗いてやんの、バカなハゲオヤジ」とさも嬉しそうにひとりごちた。
  昔もそうだった。
  逃げ隠れた先の場所では、いつも櫻ちゃんが見張りをして、櫻ちゃんの指示が出るまで、僕は決して動いてはならないのだ。
  その時の役割分担そのままに、櫻ちゃんはじっと敵を見つめ続けている。
  僕はちらりと時計を見た。逃げ始めてから三十分という時間が経っている。なかなかの持久戦だ。
  僕も櫻ちゃんと同じように、そっと外を覗いてみた。
  丁度、夕日に照らされた親父のハゲ頭が、公園の外へと出て行くところであった。
  「行っちゃったね」と安心して言う僕に、櫻ちゃんは「まだだ」と低い声で言った。
  そうだった。
  櫻ちゃんは用心深くて、鬼が離れて行ってしばらくしてからでないと、安堵した表情を見せない。今日もそうだったのだ。
  僕は何気なく、横に並んでしゃがんでいる櫻ちゃんの手を見つめた。
  高校を卒業してすぐに、亡くなったお父さんの後を継いで漁師になった櫻ちゃんの手は、黒くてごつごつした海の男の手になっていた。
  僕は少し寂しくなって、櫻ちゃんの手をぎゅっと握った。
  櫻ちゃんの手からは少し驚いたような反応があったけど、すぐにぎゅっと握り返してくれた。
  櫻ちゃんの手は相変わらず、僕のよりも少し大きくてあたたかかった。
 

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